エチェべリーア元メキシコ大統領が百歳に到達

    メキシコのルイス・エチェベリ―ア=アルバレス元大統領(任期1970~76)は1月17日、満百歳に到達した。この国の国家元首経験者として最長寿者となった。     1922年のこの日、首都メキシコ市に生まれ、40年に国立メキシコ自治大学(UNAM)法学部に入学した。『メキシコと大学』誌を創刊し、社会問題を論じた。国立チリ大学から奨学金を得て留学、アルゼンチンも旅行した。     「若手芸術家・作家協会」、「メキシコ青年自由世界機構」を設立。43年、時のマヌエル・アビラ=カマ―チョ大統領から、「自由世界のための青年協会」代表に任命され、米州学生会議に出席する。       45年、「諸国家の権利と社会の均衡システム」を卒論にUNAMを卒業、弁護士になる。同年、ハリスコ州知事だったホセ・スノの娘マリーア=エステル・スノと結婚。6男2女を儲ける。孫19人、ひ孫14人がいる。     46年、政権党PRI入党、党首次席秘書に就任する。58年内務政務次官になった時から出世コースに入った。上司の内相グスタボ・ディアス=オルダース(GDO)が64年の大統領選挙候補となったため、内相に昇格。GDO政権発足で内相を続ける。     68年、ラ米初のメキシコ五輪大会が開かれることになったが、国際的な学生運動の波が押し寄せ、メキシコ全土で激しい運動が展開された。学生らは封建的な政治・社会n変革を求めていた。       軍隊が出動し死傷者が増えつつあったが、学生側は10月2日、首都トラテロルコの三文化広場に結集し、10日後に開会式が迫っていた五輪を「人質」として、政府に変革の公約を迫った。     GDOは軍隊を出動させ、広場を包囲、一斉射撃を加えた。非公式数字で死者300人、負傷者1000人が出たとされるが、正確な数字はいまだに不明のまま。血塗られた五輪は10月12日、何事もなかったかのように開会した。     エチェベリ―アは大統領の指示に忠実に従い、内相として学生運動を弾圧した。GDOは、70年大統領選挙の後継候補にエチェベリ―アを指名する。無論当選し、70年12月就任した。     新大統領は、中国の「百花斉放・百家争鳴」から閃きを得て、政治改革、報道の自由拡大に努めた。これにより潜んでいた権力闘争が表面化。またも首都カスコ・デ・サントトマースで、流血の学生運動弾圧事件が起きる。     エチェベリーアは76年の任期切れ後の生き方を決めており、それは国連事務総長になることだった。そのため世界中を広く回り、また多くの国家元首たちを招いて運動し、「諸国家の経済権利義務憲章」を国連総会で成立させた。     そして国連事務総長選挙に臨んだが、内相と大統領期の流血事件が祟って、落選した。その後、広大な私邸内に「第三世界問題研究所」を設け、政界や社会との関りを持ち続けた。     2005年に人道犯罪容疑で起訴され自宅軟禁となったが、証拠不十分で無罪となった。そして生き続け、ついに百歳の日を迎えた。     私は、GDO政権下で4年、エチェベリ―ア政権下で4年半、メキシコで記者生活を送った。68年学生運動、トラテロルコなど二つの流血事件、メキシコ五輪、エチェベリ―ア国内視察、その外交などを取材した。     72年のエチェベリ―ア公式訪日には、メキシコ側記者団の一員の形で一時帰国した。1998年に私邸に訪ね、二十数年ぶりにエチェベリ―アに会い、インタビューした。当時76歳の元大統領は、二つの流血事件の責任を認めなかった。     このとき、チェベリーアはかなりの老人に見えた。まさか百歳まで生き続けるとは思いもよらなかった。だが生きている。お陰で私のメキシコ時代は依然、「現在」であり続けている。          

コメント

このブログの人気の投稿

ラ米学徒、久保崎夏の思い出

『ホンジュラスに女性大統領誕生』公開のお知らせ

メキシコ外相が「メリダ計画」終了を宣言