閉じなかった円環ー日本五輪サッカーに思う

   1968年10月24日、駆け出し期にあった私はメキシコ市南部のアステカ競技場の記者席にいた。メキシコ五輪サッカー3位決定戦を取材していたのだ。日本対メキシコ(墨国)=日墨戦だった。

   当時23歳のエース釜本邦茂(現在77歳)が2ゴールを決め、日本は五輪初のサッカーメダルに輝いた。観客席は10万人を超えるメキシコ人で埋め尽くされていた。熱気と殺気を帯びた敵地で、日本は勝ってしまったのだ。

  釜本は計7ゴールを挙げ、得点王になっただけでなく、フェアプレー賞も獲得した。

  サッカー日本選手団も我々記者団も、五輪村に無事帰れるだろうかと不安だった。

  完封され銅メダルを逃したメキシコの憤懣やるかたない大観衆は、それをどこにぶつけるか、標的を探しているようにも映っていた。競技場周辺にも大群衆がいた。

  結局、みな無事だった。選手村と記者村に何とか帰り着くことができた。

  それから53年後の今夜、東京五輪の埼玉スタジアムで、銅メダルを争う日墨戦が再現した。今度はメキシコが敵地で戦った。そして3対1で、彼らが勝った。

  号泣する久保建英は20歳。釜本の役割を担わされていた重責からメダルなしで解放され、堰が切れたように涙したのだ。

  私はこの試合を、53年前と二重写しにしながら観ていた。アステカ競技場でのあの日と大きく異なったのは、大観衆がいないことだ。前半で2ゴールを許した日本は、静寂の中で敗退した。

  日本がメキシコ五輪から半世紀余り経って再びメキシコに勝てば、私の「思い出の円環」の一つが閉じることになると思っていた。それを期待していた。だが、円環は閉じなかった。

  その結果、3年後の巴里五輪を待つ身となった。待つー円環の欠落部分は希望なのか。それは閉じることなく、膨らんでゆくのだろう。

▼もう一つの円環は閉じた

  1992年の、開催国スペインとしてはコロンブス米州到達500周年を記念して開いたバルセローナ五輪で、野球は正式種目になった。私は、この五輪も取材し、野球場にいた。

  日本アマチュア界のエース投手、杉浦正則は当時24歳。日本チーム投手陣の一角を担っていた。私は、生真面目な彼から試合前後に情報を仕入れていた。金メダルを狙っていた日本の成績は銅メダルだった。

  その後、日本はアトランタ銀、シドニー4位、アテネ銅、北京4位と浮沈を経、ロンドン、リオデジャネイロの両五輪では種目から外された。

  今回2021年東京五輪で日本はついに金メダルに届いた。2対零で米国に勝って優勝した試合を観て、バルセローナに始まった私の野球取材の円環は見事に閉じたのだった。 

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