電子版「ラ米乱反射」に「ラ米情勢とバイデン米政権」公開 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 2月 26, 2021 LATINA誌電子版「ラ米乱反射」の第7回「ラ米情勢とバイデン米政権 ボリビア経済モデルに注目」が2月26日公開されました。御覧ください。 なお「週刊金曜日」誌2月26日号書評欄に、在ペルー日本大使公邸占拠事件について詳述されている『外交回想録』(寺田輝介著、吉田書店)の拙評文が出ています。ご参考まで。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
パディージャ事件から50年、分析冊子が刊行さる 4月 29, 2021 キューバの詩人エべルト・パディージャ(1932~2000)が1971年3月20日逮捕され、4月27日自己批判させられた「パディージャ事件」から半世紀が過ぎた。この時宜を捉えて25日、同事件の解釈やラ米知識人らの反応を分析した冊子(読本)がハバナで刊行された。 執筆者は、ラス・アメリカス館長アベル・プリエト(作家、元文化相)と、同館幹部ハイメ・ゴメス=トゥリアナ。題名は、『ゲームの外(および内)でー「パディージャ事件」から50年』。 パディージャは1968年に詩集『ゲームの外で』を出版。「ゲーム」とは、進行中のキューバ革命体制の隠喩である。この詩集は同年、玖作家芸術家協会(UNEAC)賞を受賞したが、「反革命」傾向を指摘されていた。 キューバは59年元日の革命当初から経済建設が難航。60年代半ば以降、経済苦が厳しくなっていた。そこでフィデル・カストロは共産党路線を民族路線からソ連寄りに切り替え、72年にはソ連圏諸国の経済相互援助会議(コメコン)に加盟、経済を安定させた。75年には社会主義憲法を制定、76年にソ連型政治機構に移行した。 60年代末には、政経両面の「ソ連近似化」路線が始まっており、思想統制も徐々に厳しくなっていた。コメコン加盟を翌年に控えた71年の3月20日、パディージャは逮捕され、4月27日まで拘禁された。釈放されてすぐにUNEACで自己批判させられ、「反革命の非」を認めた。これが「パディージャ事件」である。 事件を境にラ米や欧州の知識人が少なからずキューバ革命支持を取り下げ、カストロ体制と袂を分かった。刊行された読本は、とくにラ米作家たちの反応を三通りに分けて分析している。 ①はペルーのマリオ・バルガス=ジョサ(MVLL)ら強硬派。カストロ体制を「スターリン主義」と批判して離反した。②は亜国の故フリオ・コルタサル、スペインの故フアン・ゴイティソーロらで、袂を一旦分かった後、キューバと仲直りした。③はコロンビアの故ガブリエル・ガルシア=マルケスのように革命体制支持が明確な者。 興味深いのは、パディージャが自己批判を逆手にとって、キューバが、「スターリンによる粛清が猛威を振るっていた1930年代のソ連のようになってしまった」ということを暗に表示したと、筆者2人が指摘していること。 自己批判を聴いたUN... 続きを読む
新大統領就任直前、ホンジュラス国会に議長2人! 1月 24, 2022 明後日1月27日、ホンジュラスで同国初の女性大統領シオマラ・カストロ(62)が就任する。昨年11月28日の選挙に穏健左翼LIBRE(自由・再建党)およびPSH(ホンジュラス救国党)など諸党の統一候補として出馬、圧勝した。 これに先立ち25日、新国会が発足する。その議長が新大統領の宣誓式を執り行う。ところが異変が起きた。下院128議席のうち50議席を占めた新政権党LIBREの保守派議員20人が造反、エルナンデス現政権の国民党(43議席)になびき、20日にLIBRE造反組の頭ホルへ・カリックスを新議長に選出してしまったのだ。 一方、カストロ派議員30人他、連立諸党議員は国会議事堂で、PSHのルイス・レドンド議員を議長に選出した。造反組は議事堂外でカリックスを選んだ。一種のクーデター画策だ。LIBREは造反組を除名した。 新政権は「腐敗掃討」を優先政策に掲げている。これを恐れる国民党は、国会の議事進行を阻止するため、LIBREを分裂させる荒業で「自分たちの議長」をしたのだ。その黒幕はエルナンデス現大統領とロボ前大統領だ。2人の家族は麻薬取引で断罪され、米国で服役中。 シオマラの夫マヌエル・セラーヤは2006年に自由党から出馬し、当選して政権に就いたが、09年クーデターで追放された。保守・極右体質の国民党は、シオマラの任期4年を全うさせたくなく、就任直前に早くも揺さぶりをかけたわけだ。 続きを読む
ラ米学徒、久保崎夏の思い出 9月 08, 2021 ラテンアメリカを愛し踏査し料理を身に着け友人をつくったラ米学徒・久保崎夏(くぼさき・なつ)が9月4日、41年の人生を終えた。その葬儀が本日8日、埼玉県草加市にある谷塚斎場で挙行された。 故人の遺志により「無宗教」の音楽葬として催され、女性音楽家2人がヴァイオリンとエレクトーンをそれぞれ演奏、その重厚にして物悲しい曲を枕に、葬儀は進行した。 父親の久保崎輯さんが喪主として挨拶。伯父・早乙女勝元さんは、大学生だったころの夏らとミャンマー(旧名ビルマ)を訪問し、自宅軟禁中だったアウン・サン・スー・チーと面談した逸話を明かした。夏の従姉・早乙女愛さんも夏の思い出を語った。 夏は明治大学を卒業して数年後、立教大学ラ米研究所の受講生になった。スペインの「ベンポスタ子ども共和国」のベネズエラ版「共和国」に半年滞在し、ラ米に関心を抱いた。好きになったのだ。だからラ米研にやってきた。 私は2005年4月から14年3月まで9年間、ラ米研の「現代ラ米情勢」という講座の担当講師だった。夏は優秀な受講生だった。読み聴いて学んだことを、現地に赴き、脚と目で確認した。だから休暇をやりくりしては、ラ米を、そして世界を旅行していた。 葬儀にはラ米研時代の級友7人も参列した。メキシコ市在住の級友2人からは弔電が届いた。ブエノスアイレスやバルセローナの友人らからも悼む声が届いていた。 私はジャーナリズム活動の一環として、来日するラ米諸国の文化人、知識人らにインタビューするが、夏には10人ぐらいの取材で、相手の人物を撮影する写真家を務めてもらった。 そのなかには、文豪ボルヘス夫人マリーア・コダマ(日系亜国人)、ノーベル文学賞作家マリオ・バルガス=ジョサ(ペルー人)、キューバ性教育センター所長マリエラ・カストロ(ラウール・カストロ前共産党第1書記の娘)らが含まれている。夏は物おじすることなく、淡々と撮影をこなした。 夏は、ラ米の白い民俗衣装に身を包んで横たわっていた。若くして不治の病に侵された無念さからは解放されていたが、その情念の残り香が漂っていた。 薔薇やさまざまな花で棺を飾るとき、彼女の顔の周囲は赤薔薇で包まれた。メキシコ調の色彩であり、フリーダ・カロに少し似た雰囲気が醸し出された。 夏は1980年6月生まれ。初夏の産ゆえに「夏」と命名された。私は西語の男性... 続きを読む
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