沖縄で「世界ウチナーンチュセンター」建設目指し冊子刊行

    日本の代表的な海外移民県の一つ沖縄県の民間団体「世界のウチナ―ンチュセンター設置支援委員会」が「世界のウチナ―ンチュの日」の10月30日、『世界ウチナ―ンチュセンター 沖縄に本家(むーとぅやー)をつくろう!!』を刊行した。

  ウチナ―ンチュ(沖縄人)は明治維新直後からハワイ、太平洋諸島、米カリフォルニア州、ラ米諸国などに移民を送り出してきた。移住者には、「日本にいれば<沖縄差別>があるが、国外の移住地では日本人差別はあっても、沖縄人差別は消えてなくなる」という悲痛な思いもあった。

  私(伊高)が記者として最初に「沖縄」を取材したのは、ラ米取材の拠点だったメキシコ市で1967年9月、米州歴訪中の松岡政保琉球政府行政主席(当時)にインタビューした時である。主席は、「沖縄人口90万人の40%は日本本土なり外国に移住させるのが望ましい。<宿命の島>沖縄から裸一貫で異国に出て、今日の生活を築いた移住者の皆さんに敬服している」と述べた。私は「40%」の数字の大きさに驚いたことを記憶している。

  沖縄は1972年5月、米国から施政権を返還され、日本に復帰した。復帰からしばらくの間は知識人の間で「反復帰論」が盛んで、「平和憲法下に復帰できると思ったのに、日米安保条約の下の復帰した。騙された」と、「日米の軍事植民地」状態の強化に怒る県民が多く、本土との経済格差と相俟って、「反ヤマト」感情が沸き立っていた。

  だが80年代半ばごろから沖縄人は「日本の彼方の海外に多くの同胞子孫がいる」のを再認識し、琉球新報、沖縄タイムス、沖縄テレビなどは特派員を次々に移住地に送って、「沖縄県系人」の暮らし考え方を伝えた。

  熱い報道に煽られて1990年、沖縄県・市町村の共催により「第1回世界のウチナ―ンチュ大会」が宜野湾市で開かれた。以後ほぼ5年ごとに開催されてきた。 次回第7回大会は2022年に催される。コロナ禍もあって、1年延期されたのだ。

  90年代以後の過程で、「華僑」に倣った「琉僑」という言葉が生まれた。「世界ウチナ―ンチュ・ビジネス協会」(WUB)や、「世界若者ウチナ―ンチュ連合会」(WYUA)などが組織された。「世界ウチナ―ンチュセンター」は「WUC」である。

  私は、第1期ラ米取材(メキシコ時代、67~75年)後の77~79年の3年間、那覇に住み沖縄を取材。現在まで沖縄との関係が続いている。

  このため私は「精神的琉僑」を自認している。今回刊行された冊子に、私も一文を寄稿した。編集部から依頼されたからだ。そこに松岡主席取材にも触れた。

  ウチナ―ンチュと在外県系人(琉僑)は、その絆の証、心の拠り所としての「むーとぅーや=本家」WUCの建設を構想し、浄財を集める運動を続けてきた。私も、建設実現を夢見、心待ちにしている。

    

  

 

コメント

このブログの人気の投稿

ラ米学徒、久保崎夏の思い出

『ホンジュラスに女性大統領誕生』公開のお知らせ

メキシコ外相が「メリダ計画」終了を宣言