竹田鎮三郎画伯を描く映画「TAKEDA」へのいざない

 在京メキシコ(墨国)大使館文化部は7月24日~26日、ドキュメンタリー映画「TAKEDA」をオンラインで流している。コローナ禍で外出を避けたい人々に対する粋な計らいだ。

 https://youtu.be/XcOrJwIhD_U  もしくは、
https://www.facebook.com/Takedafilm/videos/650451459131428

  南墨(メキシコ南部)オアハカ州都オアハカ市の郊外で制作を続ける竹田鎮三郎画伯(今年85歳)が、なぜ日本を去りメキシコに移住し定着したかを描く、墨映画庁2017年製作のドキュメンタリー映画(90分)である。

 竹田は愛知県瀬戸市の農家に生まれ、東京芸術大学を卒業したが、抽象画や巴里派としっくりいかなかった。故郷の先達でメキシコに名を残した先輩画家、北川民次を師と仰ぎ、1963年渡墨する。初期はサンカルロス美術学校(メキシコ国立自治大学美術学部)に学び、かつ教えながら、日系画家ルイス西沢のアトリエ兼住居を借りて制作。そこは、墨都の代表的大衆地区の一つテピート地区にあった。

 後に地下鉄フアナカトゥラン駅に近いタクバヤ地区に住んだが、やがてオアハカ市に移り、ここを永住地に定める。同市にあるオアハカ大学美術学部の教授、学部長も務めた。「オアハカ画壇」の押しも押されもせぬ指導者、長老となり、今日に至る。弟子たちが少なからず画家として、メキシコ内外で活躍している。

 メキシコ、他の米州諸国、日本で個展、回顧展を数多く開いてきた。油絵と版画が中心だ。作風については、この映画を観て、判断願いたい。

 映画はまず、農村生まれの「農民」という出自を自認し、置かれた共通の立場をメキシコ南部の農民に見出す竹田を、オアハカと瀬戸を舞台に描く。東京渋谷にある故岡本太郎画伯の代表作の壁画「明日の神話」にしばし向き合う竹田だが、表情は空虚だ。

 雑踏の東京、同じく大都会のメキシコ市、いずれも、もはや縁なき空しい都会砂漠に過ぎなくなっていた。岡本の壁画も、そんな雑踏の一角にある「付属物」だと竹田の目には映ったのか。

 実は私(伊高)は1967年にサンカルロス美術学校で竹田を取材して以来、53年に亘って竹田と交流してきた。テピートやフアナカトゥランで、日本から竹田の元に届くたくさんの新刊書を読みまわしては読書会をした。私は竹田の「ラカンドン訪問記」などの記事を書いた。会っても会えなくてもいい。竹田の人間性、生き方を理解しているという思いがあるからだ。

 岡本太郎は1970年の大阪万博での「太陽の塔」が、壁画家ダビーAシケイロスの後援者マヌエル・スアレスに注目され、スアレスが墨都ラマ公園に建設していた巨大なホテルのロビーを飾る神話の制作を依頼された。

 私は岡本がメキシコ市に来るたびに取材していたが、岡本に頼まれ壁画制作の現場監督のような立場にあったのが竹田だ。墨都には巴里画壇を嫌い、ポール・ゴーギャンがタヒチに去ったように、「南」に憧れてやってきた多くの若い日本人の画家の卵がいた。竹田は動員された彼らを指揮していた。

 この壁画は、スアレスが破産しホテル建設が滞ると、行方不明になった。だが後年、地方で奇しくも発見され、岡本側に買い戻される形で日本に運ばれ、修復されて渋谷に飾られた。

 竹田が数奇な運命を辿った岡本の壁画の前でたたずむ場面からは、竹田が見たのは過去の自分自身の抜け殻だったのではないか、と思わせられる。昨年(2019年夏)、瀬戸と東京で「TAKEDA」の上映会があったが、東京の上映会で会った竹田に岡本壁画の制作時の思い出を訪ねると、竹田は「覚えていません。すべて忘れました」と答えるだけだった。

 ★竹田の実弟竹田邦夫は銀の街タスコに学び、今は墨都を拠点に制作する銀細工師。毎年9~10月、渡り鳥のように来日し、作品の展示即売会を催している。

コメント

このブログの人気の投稿

ラ米学徒、久保崎夏の思い出

『ホンジュラスに女性大統領誕生』公開のお知らせ

メキシコ外相が「メリダ計画」終了を宣言