豪州諜報機関がアジェンデ打倒でCIAに協力していた

   チリは9月11日、軍事クーデター48周年記念日を迎えた。こちらが現代史における「本家9・11」である。米国のそれは「もう一つの9・11」と位置付けられる。チリ紙は11日、当時のブッシュ米大統領が2003年に対イラク戦争開戦前、リカルド・ラゴス智大統領(当時)に電話し支持を求め、ラゴスがそれを拒否した事実を報じた。

  アウグスト・ピノチェー陸軍司令官ら軍部に倒された人民連合(UP)社会主義政権の主だったサルバドール・アジェンデ大統領の遺体は、首都サンティアゴの「一般墓地」内の要人墓地区にあるアジェンデ廟に眠っている。

  この48周年記念日、旧UPの中核を担った共産党(PCCH)をはじめとする左翼諸党の党員や支援者は目抜きのアラメ―ダ大通りを行進し、アジェンデがクーデターの戦火の中で自害したモネーダ宮殿(大統領政庁)前に建つアジェンデの立像に花輪を捧げた。

  また、若手左翼陣営を中心とするデモ隊は一般墓地まで行進した。一部の覆面活動家は商店を掠奪するなどして、カラビネロス(準軍組織・治安警備隊)に制圧された。この暴徒たちの存在は、智人口の6・6%が貧困(極貧は同4・3%)、18歳以下貧困者70万人)という現実をある程度反映している。

  一方、有産層の若者数十人は首都の陸軍士官学校構内で、ピノチェー体制を礼賛する集会を開いた。新自由主義経済路線により少数富裕層が桁外れに繫栄し、貧富格差と社会分断が著しいのが今日のチリだ。

  サンティアゴ市は10日、市教育当局と記憶・人権博物館が協力して人権教育を施すことを決めた。同博物館のフランシスコ・エステーベス館長は、73年クーデター以降90年まで続いたピノチェー軍政下での人権蹂躙状況をまとめた「バレチ(バレク)報告」(国家政治囚・拷問調査委員会報告)の未公開部分を早期解除するよう求めた。

  9・11は、チリの民主政治を押しつぶし、ラ米全体の政治の在り方と政治思想を変えてしまった。それから半世紀近く経った今、チリは民主体制下にあり、民主憲法起草過程にある。だが、パトリシオ・グスマン監督が最新の作品「夢のアンデス」(来月10月9日から岩波ホールで公開)で指摘するように、「9・11前のチリは永遠に戻らない」。

  私は当時の取材拠点メキシコ市から南米に出張しては、チリ情勢をカバーしていた。クーデター直後のサンティアゴやバルパライソの街は銃声が鳴り響き、恐怖と緊張の日々が続いた。この取材は私のラ米取材の中で最大の仕事の一つとなった。

★★★48周年記念日前日の9月10日、米国の国家安全保障文書館はチリクーデターに関する機密文書を新たに公開した。それは豪秘密情報局(ASIS)がアジェンデ政権打倒を狙うニクソン米政権下のCIA(中央情報局)の要請を受け、1971年初頭からクーデター後まで、チリで諜報協力していたおぞましい事実を暴露した。

  CIAは1970年9月、チリ大統領選挙で3人の候補のうちのアジェンデ(社会党首、UP統一候補)が得票第1位になるや、アジェンデ打倒工作に着手。国会での決選投票でアジェンデが勝ち、11月初め政権に就くと、オーストラリア政府に諜報協力を求めた。

  当時の豪州政権は、ジョン・ゴートン首相の自由党を中心とする保守政権だった。その外相だったウィリアム・マクマホン外相はCIAの要請を受け入れ、71年2月ごろからサンティアゴにASISの覆面支局を開設した。外相は同年、首相になる。

  その主要任務は、CIAが雇ったチリ人スパイたちからの情報を受け取り、それを整理して英語でまとめ、米ヴァージニア州ラングレイのCIA本部に送ることだった。

  公開文書には、支局開設、派遣党員の住宅、乗用車購入などの費用から、支局撤収の際に乗用車が高く売れたことなどまで記録されている。

  だが72年末、豪州はマクマホン政権から、ゴウ・ホイットラム首相の労働党政権に替わった。同首相は、アジェンデ民主体制打倒工作に加担した事実が明るみに出たら、それを正当化するのは困難であり、豪州の国際的評価を著しく傷つけると強く懸念、悩んだ。一方で、協力打ち切りが同盟国・米国の対豪心証を悪化させることを警戒していた。

  結局、ASIS覆面支局は73年7月閉鎖され撤収。要員一人が「残置諜者」としてサンティアゴに残った。73年9・11、ニクソン政権の陰謀は実る。しばらくして残置諜者も出国した。

  米政府のチリクーデター関与の実態は、ピノチェー将軍が1998年に訪問先のロンドンで英当局に逮捕された後、クリントン米政権が始めた関連機密文書解除によって徐々に明るみに出ていた。

  だがASISの陰謀加担の機密情報解除は、豪州陸軍諜報活動の元分析者クリントン・フェルナンデス=在キャンベラ・南ニューゲイルズ大学国際・政治研究所教授=の努力によるところが大きい。

  ウィットラムは下野していた77年に議会で、豪州のチリでの諜報関与を認めた。フェルナンデスは豪州政府とCIAに機密文書解除を要求し続けた。その甲斐あって豪州の法廷は2021年5月、文書開示を認め、フェルナンデスは6月、極秘裏に文書を見ることができた。しかし、それは黒塗り箇所だらけだった。そう、今回解除された米文書館文書は指摘する。

  クーデターから半世紀近く経っても、なお機密文書が出てくる。あの9・11の解明にはさらなる年月が必要だろう。2023年のクーデタ―50周年にかけての今後2年間に解除が進む可能性がある。

▼アジェンデ像が汚される

  サンティアゴ市内サンホアキン地区で9月17日未明、サルバドール・アジェンデ大統領の立像の頭部から腰にかけて赤いペンキで汚され、頭上には空になったペンキ缶が被せられた。台座には「殺人者」、「泥棒」などとペンキで落書きされた。台座下は、噴水の水をためる窪地で囲まれているが、その浅い池のような窪地の水はペンキで、血液のように真っ赤に染まった。

  台座には、アジェンデが自害する直前にラジオを通じて流した最後の演説の言葉が刻まれている。警察は、極右勢力の犯行と見て捜査を開始した。

   

 

 

   

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