メキシコ教員養成学校生43人殺害現場の状況明らかに

   メキシコ・ゲレロ州内で2014年9月26~27日起きたイシドロ・ブルゴス農村教師養成校生43人行方不明事件=「アヨツィナパ」事件=の核心的犯罪状況が明らかになった。政治社会週刊誌「プロセソ」(9月14日付)や新聞が、犯罪集団による43人殺害と遺体焼却の目撃談を報じたからだ。

  同誌や新聞が報じたのは、ゲレロ州を拠点とする麻薬マフィア「ゲレロ・ウニード」(GU)に事件当時所属していたフアン=ミゲル・パントハ=ミランダ元容疑者が、逮捕された後、国家人権委員会(CNDH)に対して証言した内容。

  パントハは事件に直接関与した容疑者として48件の容疑を追及され、18年8月28日、コアウイラ州ピエドゥラスネグラス市で逮捕された。そして証言した。

  だが不可解にも「証拠不十分」として18年9月12日、釈放された。当時はエンリケ・ペニャ=ニエト(EPN)大統領の最終年で、EPNは事件の真相を知りながら、ひた隠しにし、同年12月1日、任期満了で政権を去り、現在のAMLO大統領が政権に就いた。

  その後、分かったことだが、パントハは逮捕された後、拷問されて自白したため、釈放されたようだ。

  パントハのプロセソ誌への証言の要旨は次のようなものだ。「事件後、良心の呵責に耐えられず、眠れない日々を過ごした。そのため逮捕された2日後、知ることすべてを自白しようと決意した」という。

  (ゲレロ州イグアハラ市内で陸軍駐屯部隊、連邦警察、州警察に守られた市警とGUに43人が襲撃されつつあるとの情報が14年9月26日22時ごろ、CUの仲間から電話で伝えられ、指定されたコクラ市内の住所に「早く来い」と言われた。

  22時10分ごろ到着すると、GU仲間6人が待っていた。一緒にニッサン小型トラックに乗り込み、イグアラに向かった。だが途中でイグアラからやってきた一行に出会い、合流してコクラに向かった。

  一行は、学生43人を重ねて積み込んだ3・5トントラックと、護衛する市警の車2台だった。パントハら6人は、学生たちが立ち上がって逃げるのを防ぐため監視するよう求められた。学生たちは「窒息する」などと、うめき声を上げていた。するとGUの要員2人が学生たちに向けて計8度ばかり発砲した。

  次いで、GUの一人が、学生1人の背中に黒のエアゾールで「X」と書き、「こいつは知っている。お頭が探していた奴だ」と言った。

  コクラ市郊外の森の中にある、ごみ処理場に着いたのは、9月27日午前1時ごろだった。15分ぐらい待つと、GU要員が大型銃で武装した仲間約15人を連れて到着した。この武装グループが学生たちを銃撃して殺害した。息のある学生は銃で止めを刺された。

  同グループはタイヤ、薪、木の枝などを敷き、その上にが鵜性たちの死体を載せた。うち体格のいい15人の死体の口を開け、ディーゼルを注入した。午前3時に火が放たれ、10時ごろまで強い火柱が立っていた。火は午後3時ごろまで燃えていた。

  この9月27日は大雨が降ったため解散した。パントハは翌28日、GU要員5人と現場に戻り、遺骨を収集した。雨で溶けた泥にまみれた骨はシャベルですくい、8つの黒いプラスチック袋に入れた。一つが約50㎏だった。

  袋はニッサントラックに積んで近郊のサンフアン河畔に運び、流れに投棄した。(だが学生の遺骨は、その川とは別に、近郊の谷間でも発見されており、他にも遺骨が投棄された場所がある可能性が残っている。)

  (コク―ラのごみ処理場からは先年、遺骨の一部が見つかり、DNAを国際鑑定した結果、学生1人のものと特定された。このことから、学生43人全員が殺され燃やされた可能性が認識されていた。)

  パントハは、「私の証言は真実であり、学生たちの行方を探しても意味がない」と遺族に伝えたい、とも語っている。

  また法廷で証言し、事件の主犯ではないが共犯者として裁かれ刑に服す覚悟がある、と述べ、政府に身柄と家族の安全を保障するよう求めた。だが起訴されずに釈放されてしまった。

  アヨツィナパ事件の解明を公約していたAMLO大統領は、事件に関与した陸軍士官を逮捕起訴し、事件への国家機関の関与を公式に明るみに出した。

  メキシコは9月15日の「メキシコの夜」から月末にかけて独立200周年を祝い楽しむが、そのさなかに来る事件7周年記念日に学生の遺族や支援団体は、AMLO政権に事件の全貌解明、責任者断罪、賠償などを従来通り求めるだろう。

 

 

  

  

   

  

 

 

 

 

 

    

 

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