チリ上院議員暗殺から30年、首謀者の身柄が送還さる

       1980年代半ばから90年代初頭にかけてチリで活動を激化させていた地下極左結社「FPMR」(マヌエル・ロドリゲス愛国戦線)は91年4月1日、首都サンティアゴ市内で白昼、極右政党UDI(独立民主同盟 )のハイメ・グスマン上院議員(当時44歳)を乗用車内にいたところを銃撃し暗殺した。それから30年半、この事件の首謀者うちの一人の身柄が9月23日、メキシコからチリに護送された。

      FPMRは86年9月、当時の軍事独裁政権の大統領アウグスト・ピノチェー陸軍司令官を暗殺するため襲撃したが、失敗した。グスマンはピノチェーの政治顧問で、80年制定の軍政憲法の中心的起草者でもあった。

    教会で挙行されたグスマンの葬儀にはピノチェーら政府高官が参列。遺体は軍の栄誉礼を受けて埋葬された。

  護送された首謀者の一人は、ラウール・エスコバル=ポブレ―テ(通称「エミリオ司令」、57 歳)。チリから逃亡、2002年ブラジルを最後に行方をくらませたが、17年にメキシコ・グアナフアト州サンミゲル・デ・アジェンデ市で逮捕された。

  エスコバルは「ラモーン・ゲラ=バレンシア」の偽名でメキシコに滞在、サンミゲルを拠点に身代金誘拐などで生活と活動の資金を稼いでいたという。メキシコの法廷はエスコバルに禁錮60年という異常に長い、事実上の終身刑を科した。それは、チリ政府に慮った意味もあると見られている。

  チリ政府はエスコバル逮捕後、メキシコ政府に身柄引き渡しを求めて交渉に入った。 AMLO政権は、エスコバルがチリで裁かれ判決が出た後、身柄をメキシコに戻すという条件で、チリへの一時的な引き渡しに応じた。

  1991年4月当時のチリは、90年3月11日の民政移管によって発足したパトリシオ・エイルウィン大統領の民主政権が1年1カ月目に入ったところだった。エイルウィンはグスマン暗殺の一報を受けて、「民主化深化に向けて前進しなければならないときに、過去に戻されるような事件が起きてしまった」と嘆いた。

  私は90年3月の民政移管の式典を、太平洋岸のバルパライソの国会下院本会議場で取材したが、その議場にいたグスマンの姿を見たのが彼を見た最後だった。ピノチェーは最終演説で「任務は完遂した」と言い、エイルウィンに大統領肩章を渡し、足早に下院を後にした。

      

   


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