元アルゼンチン大統領カルロス・メネム死去

   亜国大統領を1989~1999年務めたカルロス=サウール・メネム(90)が2月14日死去した。長らく糖尿病を患っていたが、腎臓障害で昨年12月、首都ブエノスアイレス(BsAs)の病院に入院。その病院で死亡した。毀誉褒貶が際立ち、「光と陰」の政治家と呼ばれた。

   西北部のラ・リオハ州に1930年、シリア移民の子として生まれた。コルドバ大学法学部に学び、弁護士になる。その学生時代、バスケットボール選手として首都での大学生大会に出場、当時のフアンド=ミンゴ・ペロン大統領とエバ夫人に会い、魅せられてペロン派政治運動に関与するようになる。

   1973年、故郷ラ・リオハ州の知事選挙にペロン派の正義党候補として出馬し当選、就任したが、76年の軍事クーデターで逮捕、拷問され投獄された。この時の体験が反軍政・反左翼という政治的体質をもたらした。

   3万2000人を殺し内外世論から厳しく糾弾されていた軍政は1982年、対英マルビーナス(フォークランド)戦争に打って出て敗北、多数の戦死者を出し、対外債務が嵩んで、経済を破綻させた。

   83年の民政移管で、急進市民同盟(UCR)党を率いるラウール・アルフォンシン大統領の政権が発足。メネムは同年、ラ・リオハ州知事選に当選、再び知事になる。

   オールバックの長髪、あるいは額に垂らした紙を波立たせ、太いもみあげの濃い風貌と、ぎらぎらした伊達男ぶりで有名になり、軍政に弾圧された経歴が物を言って、正義党内の有力政治家になる。

   89年正義党予備選で伝統派を破って大統領候補に指名され、当選。軍部極右の反乱や経済破綻で苦しんでいたアルフォンシン大統領から任期終了前に政権を譲渡された。

   大統領となったメネムは国際通貨基金(IMF)に強調し、緊縮財政政策を導入。1ペソ=1米ドルの公定交換率とした。国また有資産を次々に払い下げ、民営化した。こうした新自由主義経済政策で、超インフレは収まり、「亜国経済モデル」がもてはやされた。

   一方で、投獄されていた軍部極右分子や人道犯罪関与者を恩赦した。

   だがメネムはその陰で公金横領など汚職・腐敗にまみれた。また首都のユダヤ人協会とイスラエル大使館が相次いで爆破され、死傷者多数が出る重大事件2件が発生。イラン系と目された犯人が浮上しながら、両事件とも事実上、迷宮入りした。

   2期目に入った90年代後半、無理な通貨政策や対外債務がたたり、経済は遊撃に悪化。後継のフェルナンド・デラルーラ大統領のUCR系政権は世紀末から21世紀初めにかけ経済破綻に見舞われ、崩壊した。

   暫定政権が続いた後の2003年の大統領選挙にメネムは出馬し1位になるが、勝ち目のなかった決選進出を辞退。2位のペロン派左翼のネストル・キルチネルが当選、政権に就いた。メネムはその後、死去の日までラ・リオハ州選出の上院議員を続けた。

   大統領任期終了後に一時、汚職罪容疑で投獄されたが、釈放され、証拠不十分で無罪となった。上院議員を続けたのは、逮捕や訴追を免れるためでもあった。

   私はメネムに3度インタビューした。89年の大統領選挙当選後、ラ・リオハ州知事政庁で最初の質疑応答をしたが、その時、メネムに見受けられていた軍部に甘いペロン派右翼体質を質問すると、「私は最初の知事時代、軍政に地位を奪われ投獄され、拷問された。人権重視こそが私の使命だ」と述べ、軍部とのなれ合いなどあり得ないと強調した。

   大統領就任式と最初の記者会見を取材し、首都郊外の支持者の大農場で催された祝賀会に招かれた。ガウチョたちが何頭もの肉牛を潰して炭焼きニする大ステーキ宴だった。

   カンポラ、ペロン、ラヌーセ、フロンディシ、ガルティエリ、アルフォンシン、メネム、デラルーアと、取材した亜国大統領の中で最も印象深かったのはペロンだが、最も長く取材したのがメネムだった。メネムは現代亜国史上最長の政権の主だった。

   死の床のメネムは、売り物だったもみ上げは無論なく、浮名を散々流した色男の面影はかすみ、90歳のよぼよぼの老人だった。

   ペロン派中道のアルベルト・フェルナンデス現大統領は、3日間の国喪を宣言した。

   

   


   

 

   

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