VENの大物ホセ=ビセンテ・ランへ―ル死去

   ベネズエラの政治家でジャーナリストだったホセ=ビセンテ・ランへ―ル(91)が12月18日、心臓麻痺によりカラカスで死去した。国会議事堂内の礼拝堂で19日にかけて通夜が挙行され、二コラース・マドゥーロ大統領、デルシー・ロドリゲス副大統領、エルネスト・ビジェーガス文化相らが参列した。

 ランへ―ルは穏健左翼のジャーナリストだったが、40~50年代のマルコス・ペレス=ヒメネス軍政期に国外亡命し、同軍政崩壊後の58年に帰国。民主化のための選挙で下院議員に当選、ジャーナリズムと二足の草鞋を履いた。

 70~80年代に計3度、左翼小党から大統領選挙に出馬し落選。その後は、エル・ウニベルサル紙コラムニストなどジャーナリストとして活動。1998年の大統領選挙にウーゴ・チャベス元陸軍中佐が出馬すると、これを支持。当選したチャベスが99年2月政権に就くと、外相に迎えられた。

 2001年国防相に転じたが、02年4月、軍事クーデターに遭った。だが貧困大衆に支援されたチャベスは3日後に政権に復帰。ランへ―ルは副大統領になり、07年1月まで務めた。

 その後は、ジャーナリズムに復帰、政治週刊誌編集長などを務めた。チャベス、後継のニコラース・マドゥーロ現大統領ら要人らにしばしばインタビュー。それは独擅場だった。晩年は、テレベンTVに週1回の「ホセ=ビセンテ・オイ」(今日のホセ=ビセンテ)という時事番組のキャスターで名声を馳せた。

 だが80代末の昨年ごろから体調不全で同TV定例番組を休んでいた。一時復帰したが、またも休止。そのまま帰らぬ人になった。

 20世紀中葉から現代までのVEN政治とジャーナリズムの当事者にして、観察者だった。私(伊高)は2012年にカラカスの個人事務所にランへ―ルを訪ねインタビューしたが、日本から会見約束を取るよう求められた。

 所定の日時に事務所ビルに行くと、腰に大型拳銃を忍ばせた屈強そうな用心棒の男に迎えられ、上階の事務所に案内された。チャベス派重鎮として依然影響力の強かったランへ―ルには、暗殺される危険があったのだ。

 当時、腰部癌に罹っていたチャベスは、「フィデルも癌なんだ」と言い、自らを励ましていた。その事実を私が知ったのは、この時のインタビューによってだった。チャベスは翌13年3月、死去した。ランへ―ルは国葬の最前列でチャベスの棺を守っていた。

 盟友チャベスの死を悲しんだフィデル・カストロは16年11月、90歳で死去した。大腸癌だった。

▼国際司法裁判所がガイアナの主張認める

 VENと東隣のガイアナは、両国間にあってガイアナが支配している「ギアナ・エセキーボ」地域の領有権を1899年から争ってきた。国際司法裁は12 月18日、ガイアナの同地域管理権を認める1899年の取り決めの有効性を審理するとする裁定を賛成12、反対4で可決した。

 これに対しホルヘ・アレアサVEN外相は同日、過去に積み重ねられてきた判断を覆すものだと非難し、「取り返しのつかない誤りだ」と同裁を糾弾した。

 VEN報道機関は、「エセキーボ地域の地下資源を狙う国々の判事たちが賛成票を投じた」と指摘している。VEN政府は、この領有権問題への国際司法裁の介入に反対していた。

 


 

 

 

 

 

 

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