フィデル・カストロを「第2の父」と仰いだマラドーナ

    世界サッカー界最高のスターの一人、ディエゴ・マラドーナ(60)が11月25日、ブエノスアイレス郊外の自邸で死去した。直接の死因は心肺停止だった。

  その邸宅は、ボリビア、パラグアイ方面から流れてくる大河パラナ川の名称がラ・プラタ川に変わる美しい水郷ティグレ地区にある。

  マラドーナは、1940年代から50年代にかけて一世を風靡したフアン=ドミンゴ・ペロン将軍(亜国大統領)と夫人エバ・ペロンと並ぶ人気と知名度を内外に誇っていた。

  死去した11月25日は、玖革命の最高指導者フィデル・カストロの4回目の祥月命日だった。マラドーナは1986年、メキシコでのサッカーW杯本大会で亜国を優勝に導き、翌87年、「ラ米最優秀競技者賞」を受賞するため初訪玖した。そして初めてフィデルに会った。

  その機会にマラドーナは「私は左翼だ」と自己規定し、公言した。「亜国内外の貧しい人々の味方」というニュアンスだった。

  以来、2人は親密になり、テレビ対談でラ米情勢、スポーツ、女性観などを語り合った。情勢に疎いマラドーナが「それは何ですか」と問えば、フィデルは細かく説明した。 

  マラドーナは現役時代から麻薬に冒されていた。2000年ごろから治療のため、頻繁に訪玖、その度にフィデルと会っていた。マラドーナは亜国内外でサッカープロチームの監督を務めたが、彼の右腕には、亜国人同胞エルネスト・チェ・ゲバラ、黄金の左足ふくらはぎには、フィデルの入れ墨を彫っていた。

  2016年にフィデルが90歳で死去すると、クロアティア滞在中だったマラドーナは号泣し、ハバナに飛んだ。「第2の父」を失った衝撃は大きかった。

  フィデルの盟友ウーゴ・チャベスVEN大統領とも懇意になった。そのチャベスも2013年、フィデルより3年早く死去した。チャベスの後継者ニコラース・マドゥーロ現大統領とも友人関係にある。

     マドゥーロは26日、アルべルト・フェルナンデス亜大統領への書簡で、「ディエゴはサッカー場内外で巨人だった。VENの友人にして兄弟であり、我々チャベス主義者の誇りだった。ボリバリアーナ革命の断固たる擁護者だった」と述べた。

  サッカーに熱狂し、自身も興じるエボ・モラレス(元ボリビア大統領)とも懇意だった。ルーラ伯元大統領も友人だった。ペロン派の故ネストル・キルチネル亜元大統領、夫人のクリスティーナ・フェルナンデス同元大統領(現副大統領)とも親しかった。

  ラ米の超一流競技者で、左翼・進歩主義系指導者とこれほど広く交友したのはマラドーナをおいていない。伯人で「サッカーの王様」の称号を持つペレーは、政治的に振舞う利巧さをもち、政治指導者とは距離を置いている。

▼モンセ・ワトキンス没後20年

  付記するが、11月25日は、カタルーニャ人(スペイン人)モンセ・ワトキンスの祥月命日でもある。2000年に45歳で病死した彼女は、スペイン通信社EFE東京支局記者を務めながら、日本文学の数々の名作を西語に翻訳して、西語諸国民に紹介、また在日ラ米人出稼ぎ労働者の実態を描く著書『日陰の日本人』をものにした。

  モンセの流れを汲む在日スペイン人エレーナ・ガジェゴ教授は日本文学の研究者で、翻訳書も多い。モンセ没20周年に際し、モンセの業績を再確認する活動を続けている。

  敢えて付記すれば、1970年の11月25日は三島由紀夫が自衛隊事件を起こして自殺した日でもある。「私は文士としてでなく、武士として死にたい」と、親友のドナルド・キーンへの書簡に書いていた。

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