アジェンデ勝利のチリ大統領選挙から半世紀

 チリにサルバドール・アジェンデ大統領を生む重要な契機となった1970年9月4日の大統領選挙から50年が過ぎた。首都サンティアゴでは、9月4~5日、「UP(人民連合)勝利50年、人民政権、UPの有効性、今日の課題」と題したテレセミナリオ(セミナー)が開かれ、内外の多くの識者が発言した。

 70年の大統領選挙には左翼アジェンデ(UP)、中道トミッチ(キリスト教民主党)、右翼アレサンドリ(国民党)が出馬、アジェンデが僅差で1位になった。このため10月、国会議員投票による決選がアジェンデと2位アレサンドリの間で実施され、トミッチ票を得たアジェンデが当選、11月初め政権に就いた。自由選挙による初の社会主義政権の誕生だった。

 70年9月の選挙には当初、共産党(PCCH)のパブロ・ネルーダも出馬していたが、左翼票が社会党(PSCH)のアジェンデとの間で割れ共倒れになるため、ネルーダが譲歩。アジェンデがUP候補とって、当選を果たした。

 アジェンデはネルーダを駐仏大使に任命、ネルーダはパリで、ストックホルムからのノーベル文学賞受賞決定の電話通知を受けた。

 だが3年後の73年9月11日、ニクソン米政権と連携したチリ軍部極右による流血クーデターでアジェンデは銃で抵抗した後、自害した。その後、軍政により少なくとも3200人が殺害された。

 アジェンデ政権誕生もクーデターによる終焉も20世紀の世界史に刻まれている。50周年の日、大統領政庁前の広場に建つアジェンデ像に多くの献花が為された。

 セミナリオで発言したアジェンデ政権閣僚の最後の生存者であるハイメ・トアー元農相(85)は、「(73年7月に任命されたが)連日、敵対行動に攻勢をかけられていた。クーデター当日モネーダ宮殿(大統領政庁)で大統領に寄り添っていたが、大統領から未来ある身だから政庁を離れなさいと命じられ、結果的に生き延びられた」と述懐した。

 トアーの実兄ホセ・トアーはアジェンデの側近で、内相と国防相を務めた。

 PCCHのギジェルモ・テイジエル書記長は、「UPを勝利させた人民の願いを現代に具体化させれば、多数派国民の利益に適う新憲法の制定過程にある今、新しい道が開かれる」と述べた。チリでは10月25日に新憲法承認の是非を問う国民投票が実施される。

 VENのニコラース・マドゥーロ大統領はセミナリオへのメッセージで、「アジェンデは、より良い世界を平和裡に築くという希望を人民に与え、歴史を画した」と讃えた。

 玖共産党(PCC)は、「アジェンデは、いかなる大統領よりも多くのことを成し遂げた」と言った故フィデル・カストロ玖首相(73年当時)の言葉をあらためて紹介した。

 ラファエル・コレア前赤大統領、モニカ・ヴァレンテFSP(サンパウロフォーラム)事務局長らもメッセージを寄せた。

 一方、サンティアゴ市内のバケダーノ広場(別名「ディグニダ―(尊厳)広場)では4日、市民約400人が集会を開き、国民投票勝利や先住民族マプーチェの闘争支援などを唱えた。


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