米公開文書:「ニクソンがチリクーデター決行を命じた」

   50年前の1970年9月15日、リチャード・ニクソン米大統領はホワイトハウスでリチャード・ヘルムズCIA長官に、次期チリ大統領の座に近づいていたサルバドール・アジェンデ社会党首の大統領就任を阻止するよう命じた。

 米国家安全保障文書館は9月15日、暗号化されていたヘルムズの極秘メモ「究極の選択肢」を公開した。それによれば、ニクソンは20分間の会談で、チリでのゴルぺ・デ・エスタード(クーデター)決行を命じた。

 CIAは70年8月半ば、当時のエドゥアルド・フレイ大統領にゴルぺを主導させる案と、米国がゴルぺを主導する「混沌方式」を策定、これをニクソンに提示した。フレイ案は、在チリ米大使館とCIAがフレイを当てにすることはできないと判断していたため、却下された。

 ゴルぺ決行案は、チリ軍部に決起の口実を与えるためチリで攪乱工作を展開するというもの。命令されたヘルムズは、「リスクは問題ではない。時間いっぱいかけて最良の人材をもってけ対処する。チリ経済が危うくなると騒がせよう」とメモした。

 だが「混沌方式」には国務省、在智大使館、CIAの少なからぬ要員が異議を唱えた。国務省ラ米局は、「現実的でない。米国益を上回る失敗を犯す可能性があり、外交的に危険だ。ゴルぺはチリ、西半球(ラ米)、世界との関係上、極めて高い代償を招く」と反対した。

 国家安全保障担当のヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官の部下たちも、同補佐官に対し押し黙っていたという。ヴァイロン・ヴァッキーという側近は、「米国の原則に違反する」と抗議した。

 またエドゥワード・コリー駐智大使は、「ゴルぺが失敗し、<第2の豚湾事件>になってはならない」と強い懸念を表明した。「豚湾事件」とは、1961年4月、米傭兵部隊がキューバ・カリブ海岸のコチーノス(豚)湾ヒロン浜(プラヤ・ヒロン)一帯に侵攻し、玖革命軍に制圧された出来事を指す。玖政府は「ヒロン浜侵攻事件」と呼んでいる。

 文書館員は、「このヘルムズメモは、米大統領が選挙で選ばれた他国の指導者を倒すよう命じた事実を示す唯一の文書だ」と指摘する。

 CIAはチリの極右軍人を使って、レネ・シュナイデル陸軍司令官を暗殺、チリを大混乱に陥れた。70年10月のチリ国会での大統領決選投票の直前だった。

 だが、アジェンデは決戦で、米国が望んでいた保守・右翼候補を破り当選、11月3日政権に就く。アジェンデ大統領が最初に決めたのは、対玖国交再開だった。これは米政府への強烈な当てつけだった。

 しかしニクソン・キッシンジャー組はアジェンデ打倒を諦めず、1973年8月末に就任したアウグスト・ピノチェー陸軍司令官ら智軍部を抱き込み、同年9月11日、ゴルぺに成功する。アジェンデは政庁で抵抗した後、自害する。発足したピノチェー軍政は90年3月まで16年半、圧政を敷き、3200人を殺害した。

 キッシンジャーは、智ゴルぺの起きた73年のノーベル平和賞を受賞した。「ヴェトナム戦争終結への尽力」などが評価された。だが智ゴルぺなど世界各地での陰謀工作が暴かれ、「N平和賞にふさわしくない人物」との評価が定着している。

 

 

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