メキシコ市でのトロツキー暗殺死から80年

  ロシア革命の立役者の一人で赤軍創設者にしてソ連最高指導部に所属したレオン・トロツキ―が1940年8月21日、暗殺死を遂げてから80年が経った。

 トロツキーは政敵スターリンから1929年追放され、1937年1月、ラサロ・カルデナス大統領期のメキシコに亡命、首都メキシコ市コヨアカン地区の住宅に居を定めた。

 39年3月、40年5月の2回暗殺未遂事件に遭うが生き延びた。だが40年8月20日、スターリンの秘密警察NKVD(内務人民委員部)に雇われたバルセローナ生まれのスペイン人ラモーン・メルカデルに油断し気を許していたためピッケルで脳天を割られ、搬送された病院で翌21日死去した。60歳だった。

 政敵を追い詰めて止めを刺す「スターリンの長い手」(秘密警察)の暗い名声は頂点に達した。

 暗殺者メルカデルは禁錮20年の刑に服した後、革命後間もないキューバで静養し、フルシチョフ政権下のソ連に還る。だが暑いキューバを好み移住、ハバナで78年に65歳で死んだ。

 トロツキーは壁画家ディエゴ・リベラ、画家フリーダ・カロ夫妻の世話でコヨアカンに住んだ。フリーダは夫の浮気癖に対抗するかのようにトロツキーと関係を結ぶ。彫刻家イサムノグチとも同様の関係になった。トロツキー夫人は夫の浮気に心を痛めていた。

 私(伊高)は1967~74年、メキシコ市とクルナバカ市で壁画家ダビー・A・シケイロス(故人)と取材で交流したが、画伯は「トロツキ-を殺す意志はなかった」と言っていた。

 スターリンの命令で1940年5月、トロツキーの館を急襲し発砲したコマンドを率いたのが当時、墨共産党(PCM)の党員だったシケイロスであった。リベラも一時期、PCMに属していた。


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